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俺はね、別に政治家でもなければ、まして首相でもない。
だから「国民を説得」なんて筋合いじゃないんだけども。
ただ、なんか知らんが叩かれてるので、なぜ自分がこういう結論に至ったのか、順を追って説明したいと思う。
何の権限もないので責任は負わない。
まず、「国家的大事業」が持つ性格について。
なにせよ、途方もない予算がつぎ込まれている。
競技施設の建設費用だけでも兆単位だ。
こういった予算を組み、実行のための根回しをすることは並大抵のことではない。
カネが要ることはもちろん、人手もかかるし、その人手をもってしても何年という期間を要する。
こうして始まったプロジェクトを、直前になって「やっぱり採算が合わないからキャンセル」という訳にはいかないのが道理だ。
そんなことすれば、直接因果関係が結び付けられない死人が何人出てもおかしくない。
政治家も役人も、一般と同じ人間だ。
次に、開催の責任の所在について。
かつての太平洋戦争開戦当時、戦前に、内心では反対だったが、軍部や主戦派の暴力的な圧力や恫喝に屈服して口を閉ざしてしまった人は多かったと思う。
そういう人たちは、敗戦後に何を思ったか。
某局が制作した極東軍事裁判に関する再現風の番組があって、そこで「日本の知識人」と言う立場から、立場の弱い一般の日本人に理解を示すオランダ人判事の態度に対して、心境を仄めかすセリフがあった。
「それでも反対すべきだった」
俺が言うのは、つまり今「中止しろ」と言うのなら、そもそも誘致の時点で反対すべきだったということ。
俺個人としては、誘致の話が出た時点では、どちらかというと反対だった。
「震災の爪痕が残る東北でやるというのならいざ知らず、なんで東京で?」
「商売根性丸出し」
ブログ記事や何かのレスで公に言ったかどうかは記憶が定かでないが、もしプライベートでの個人的な発言が記録されてるとしたら、参照していただければ分かる(残ってたら驚きだが)。
誘致が決まる前後に強硬に反対しなかったのは、一つは個人的に他に優先すべきことを抱えていたし、もう一点は、かく言う俺自身「大会が成功裏に終われば経済が潤うのなら」という考えが、心のどこかにあったからだと思う。
俺だけじゃなく、いま反対してる連中も、そんな思いはあったと思う。
なにせよ、新型コロナウイルス感染症は、前代未聞に特異な感染症だ。
感染の有無が症状に表れにくく、水際の関門をすり抜けてしまう病原体が現れるなど、当時の誰が予想しただろうか。
誰も予想はできなかったし、誘致に強硬に反対する勢力も、なかったか少数だった。
そんな我々が、いま手の平を返して「中止しろ」というのは、コロナ禍前に決まった誘致・開催を、今の決定にすり替えて叩くようなものだ。
「儲かる五輪には賛成だが、儲からない五輪には反対だ」
そんな理屈が通用するだろうか?
そんなのは政治に対する国民の裏切りだし、そうやって世論が「間違える」から、政治家はどんどん卑屈になり、体裁ばかり繕って隠れて不正を働くようになる。
俺個人としては、そもそも開催するかしないかを論じる筋合いではないと思う。
ただ、開催の形式については、コロナ禍が予測不能だった点を考えれば議論の余地はあるだろう。
観客数を制限して開催する、あるいは無観客で行う余地は、十分にある。
観客の動員数を十分制限して開催するなら、感染への影響は極めて限定的になるだろう。
しかしもし中止すれば、中止による国家的損失の責めを政治に一手に負わせて切り捨てることになる。
正直俺は、それは「非道」だと思う。
人によっては、「五輪を開催しても死人は出ない」などと言うが、それは誤りだろう。
確かに、五輪を原因とする死人が出たとしても、その因果をはっきり結びつけることはできないかもしれない。
それでも、これまでの経緯を見るなら、むしろ全く出ないと考える方が難しい。
しかし、その責めは今の政権ばかりが負わされるべきではなく、誘致に反対しなかった国民全員が負うのが筋だと、俺は思う。
筋を通さなければ、今度はそこを「敵」に叩かれる。