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ま、正直に言えば、いかに見た目ではないとは言っても許容限度はあるよね。
でも、そこが問われることは多分ないと思う。
好きになる理由は?
どの程度好きか?
って部分でしょ。
俺、前に言ったと思うけど。
手塚治虫先生のライフワーク、「火の鳥」シリーズで一番傾倒したのは「復活編」だって。
あれはまさにこの話。
「恐怖の科学」なんて言うから、てっきりずばり恐怖心に科学のメスを入れるのかと思ったのに、見てみたら単に錯覚のメカニズムを科学的に説明してるだけで、恐怖の源は「リスク」という仕掛けになっている。
つまり、「自分ではそれと知らずの内に、不本意な相手に好意を抱いているかもしれない」というリスクを恐怖のテーマに据えている。
そこに恐怖を感じるくらいなら、「復活編」に傾倒することなんてないよ。
むしろ、そのリスクを恐怖の根源に据えたということは、むしろ考案した側が、「当たりくじだと勘違いして外れくじを引かされる」ことに恐怖を感じる、引いては、異性の「見た目」に群がる連中の側だと自白してるようなもの。
まぁ、中には物事を物質的にしか見ることができない人もいるんだろう。何事も頭で考える人ってそういう傾向がある。自分の感覚より客観的事実を基準に選ぶから、客観的な価値基準がないと価値を量れない。要するに、ダイヤモンドを欲しがるのはそれが「客観的にもダイヤだから」であって、「たまたまその物体が好きだったから」ではない。
ただ、そういう人には「復活編」の良さは解らないだろうな。
諦めさせることは簡単だよ。
ただ、別の動機を新たに作るのはたぶん無理だろうね。
動機ってのは「行動する理由」のことだから、いかに狙いが正しかったとしても、行動するに十分な充足が得られなければ動機にはならない。目下の問題は消極性ではなく抵抗感、ゼロじゃなくマイナスなことが問題なわけだから。
結局、再起を前提にすれば、やり過ぎだったことはもはや明らか。